趙の郭開と趙高

参加のきっかけは東日本大震災  
ヘイトスピーチデモに参加したきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災だった。東京電力福島第1原発事故に伴う計画停電の影響で、勤務先の業務に支障が生じ、3日間も帰宅できなかった。そんな中、ネットで「反原発は、左翼勢力と在日コリアンの勢力が結託して日本経済を破壊するために行っている」といった趣旨の書き込みをいくつも目にした。そのうちそれを信じ込み、反原発運動や原発の停止に不満を募らせていった。(略)男性はデモで過激な振る舞いができた理由について、道路使用許可とデモ隊を囲むように配置された多数の警官の存在を挙げた。「使用許可を取っているから、『表現の自由』を盾に何を言っても許されると思っていた。デモに反対する人が迫ってきても、警察官が守ってくれるという安心感があった。自分たちが優位にいる感覚だった」

出典:ヘイトスピーチ:「失うものばかり」後悔の元「突撃隊長」 – 毎日新聞

違法な犯罪者は罰金や損害賠償訴訟で「失うものばかり」という状態だ。原発推進派の弁護士の郭開と趙高に似ている。一般に趙を滅ぼしたのは秦、秦を滅ぼしたのは漢と言われるが、これは結果(現象)に過ぎず、実際に趙を滅ぼしたのは超の大臣である郭開であり、秦を滅ぼしたのは趙の王族である趙高である。

実際に趙高が始皇帝にいつから仕えたのかは『史記』秦本紀に一切記されておらず不明である。趙高は勤勉なことと法律に詳しいことから始皇帝の末の皇子・胡亥のお守役を拝命する。その後は晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることとなり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。

出典:趙高 – Wikipedia

出典:キングダム 1~最新巻 (ヤングジャンプコミックス)

刎頸の交わりで知られる廉頗将軍は、秦の攻勢を悉く跳ね返した。しかし、結局は『脱真実』と「嘘ニュース」により下記の状態となった。趙の名将、廉頗も李牧の敵は秦だと勘違いしたのが敗因である。敵は趙の郭開である。真の敵は強い敵でない、弱い味方(のフリをする寄生獣)である。

敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は総大将を交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。

出典:廉頗 – Wikipedia

古代中国の主権者は国王や王族だ。人間ですから賢い王(王族)もいますが、阿呆もいる。現在、日本の主権者は青年男女であるが賢い人もいるが、愚かな人もいる。重要なのは、趙の郭開と趙高が趙や秦を滅ぼしたという歴史を知ってるかどうかである。法律に詳しい滅亡した趙の王族だった趙高が何をしたか説明する。

秦帝国の滅亡と趙高の最期

天下に満ちた怨嗟は、陳勝・呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を胴斬りの刑で処刑させ、自分が後任の丞相となった。その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将章邯項羽に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。
その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙り込む群臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。このエピソードが馬鹿の語源としてよく知られている[2]。これにより反対者を粛清した趙高は謀反して胡亥を弑した(望夷宮の変)。この時、劉邦軍と密かに内通を画策したが、劉邦からは全く相手にされていなかった。胡亥の後継として、人望の厚い子嬰を擁立し、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとするが、趙高を憎悪する子嬰と韓談らによって、屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。これにより秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡した。

後世における評価

秦帝国を私物化し、保身のため忠臣賢臣を謀殺するに足らず皇帝をも殺し、天下万民からも恨みを買い帝国滅亡の原因となった趙高は、悪臣の象徴として後世でも引き合いに出されている。 なお、日本でも『平家物語』に王莽朱异安禄山とともに趙高が引き合いに出され、天下を私した結果滅んだ例として紹介されている。

出典:趙高 – Wikipedia

趙の郭開と趙高を現代日本での調査結果を見るなら統一教会系弁護士である。統一教会とは朝鮮半島の統一を目指すカルト集団である。もし、廉頗が将軍職を解任されなければ、長平の戦いで40万人も趙兵は生き埋めにされず、秦の進撃を守勢の名将である李牧が打ち破ったのは間違いない。主権者である王や王族でなく、佞臣である郭開、そして、法匪である趙高は永遠に歴史に名を残した。司馬遷が彼らの名を残したのは、現代日本にとって打ち破るべき敵は主権者である国民ではなく、国民を誑かす脱真実のネットワークだからである。そのためには真実を自分の目で見ることが何よりも大切である。その手間を省いた結果が、趙と秦の末路である。

政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿呆の語源[2]とも言われる阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。恐怖政治を敷いたことと合わせ、大いに人民から恨みを買うことになった。 また蒙恬、公子将閭や2人の弟たち、公子高など有力者や不平派を悉く冤罪で殺害した。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇することになった。

出典:趙高 – Wikipedia

我々の多くは私を含めて日本にはいない。結局、日本国内に遺った人々が日本の未来を決めるのだ。誰も強制しないし、誰も妨害しない。匿名犯罪者として歴史に名を残すのも自由である。

<傍聴人集合場所>
高知地方裁判所
2017/6/26(月) 16:30
被告:山内敏史
代理人:徳永信一

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